猿田彦神社とは

猿田彦神社の歴史・由緒

猿田彦大神は、ものごとの最初に御出現になり万事最も良い方へ“おみちびき”になる大神で、古事記、日本書紀などにも「国初のみぎり天孫をこの国土に啓行(みちひらき)になられた」と伝えられています。

天孫降臨を啓行(みちひらき)された猿田彦大神は、高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を御案内した後、天宇受売命(あめのうずめのみこと)と御一緒に本拠地である「伊勢の狭長田(さながた)五十鈴の川上」の地に戻り、この地を始め全国の開拓にあたられました。

そして、神宮第一の古典『皇太神宮儀式帳』等にあるように、宇治土公(うじのつちぎみ)宮司家の祖先で猿田彦大神の御裔である大田命が、倭姫命の御巡幸に際して、猿田彦大神が聖地として開拓された五十鈴の川上にある宇遅(宇治)の地をお勧めし、そこに皇大神宮(内宮)が造営されました。そのため宇治土公家はその後、神宮において代々「玉串大内人(たまぐしおおうちんど)」という特別な職に任ぜられ、式年遷宮で心御柱と御船代を造り奉るなど、重要な役割を果たしてきました。

同時に邸内では御先祖である猿田彦大神をお祀りし、門前には全国から訪れる参拝希望者やお供えが絶えることはありませんでした。

当社は猿田彦大神直系の子孫である宇治土公家が代々宮司を務める神社です。

皇大神宮儀式帳

皇大神宮儀式帳

※(倭姫命は)そのとき、宇治(玉串)大内人仕へ奉る、宇治土公等の遠つ祖、太田の命を、汝國の名はいかにと問い賜ひき。この河の名は佐古久志留(さこくしる→枕詞)五十鈴の河と申す。この河上はよき太宮地在りと申す。(中略)大御こころ鎮まります國と悦び給ひて、大宮地定め奉りき。

倭姫命世記

倭姫命世記

※そのとき、猿田彦神の裔、宇治土公の祖、大田命参り(中略)答へて白さく、「さこくしろ宇治の五十鈴の河上は、是れ大日本國の中に殊に勝れて霊地に侍るなり(中略)定めて主(ぬし)出で坐さむか。その時献るべしと念ひて彼の処にうやまひ祭り申せり」と。

本居宣長墨跡

本居宣長墨跡

「神代から 大神の末裔として 絶えることなく続く 名高き宇治土公家 私の大切な友よ」
※寛政11年(1799)に本居宣長大人が、参宮に際して宇治土公家に逗留し、当主の定津神主に贈ったもの。

参拝の作法について

  • 神社に参拝をするにあたり先ずお清めをします。

    手を洗い口をすすいで御神前に進みます。
  • 参拝の作法は二礼・二拍手・一礼です。

    御神前で深い礼を二回行います。
  • 胸の高さで手を二回打ちます。
  • 最後に深い礼を一回行います。

以上の作法でお参りして下さい。