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展示作品について

烈女形名の妻(れつじょ かたなの つま)

伊藤小坡作 1898年(明治31)

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 この作品、日本書紀に登場する強い女性が戦う場面をテーマとした小坡初期の代表作です。

舒明天皇9(637)年、蝦夷が叛乱を起こし朝貢することを拒絶したため、朝廷では征伐軍を派遣することを決め、上毛野形名が征伐軍の将軍に任命されました。

妻や女官らを従えた陣容は余裕すら感じさせるものでしたが、戦況は予想を遥かに超えた壮絶なものとなり、地理を知り尽くした蝦夷軍の戦術の前に惨敗を喫す結果となりました。

夜陰に紛れて砦の垣根を越えて、逃亡を図ろうとする形名に対して妻は、無理やり酒を飲ませて、女官たちに十の弓を晴らせて、その弦を鳴らさせました。「一門の武名を汚すことがないように」と叱咤激励する妻の説得に、形名も遂に心を奮い立たせて、たったひとりで蝦夷軍の中に突撃していきました。

夜であったこと、そして形名の声と女官が引く弦の音の前に、蝦夷軍は周辺に潜む伏兵と連携して兵が打って出たと勘違いし、包囲網を解除し戦線を下げました。この転進を見た征伐軍の残兵たちが、再び結集し蝦夷軍に対して追撃をかけ、壊滅させることに成功、蝦夷の叛乱は、鎮圧されたのです。

 

平家大宰府落(へいけ だざいふおち)

伊藤小坡作 1907年(明治30)頃

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 平家物語の一説・平家大宰府落を題材にしている。大宰府に都を定めた平家だったが、緒方三郎惟義(これよし)の軍勢が寄せてくることがわかったので、都を離れることになり、裸足で歩いて箱崎の津(港)に出て、垂見山、鶉浜などの険しい難所をやっと超え、ほっとして広々とした砂浜へ向かう場面を描いている。近くの樹木ははっきりと描かれているが遠くへ行くほど、かすんで見える。これは空気遠近法といい、ぼかし具合によって遠近感を出す方法。若き小坡の技術の高さを示す、初期を代表する作品の1点。明治40(1907)年頃、京都新古美術展に出品して4等賞を受賞している。

「秋草と宮仕へせる女達」

伊藤小坡作 1928年(昭和3)

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 小坡は、大正時代に発表した作品群により、京都を代表する画家の一人としての名声と評価を得ていた。もう誰に師事する必要もなかったのにもかかわらず、昭和3年、竹内栖鳳の竹杖会に入っている。竹杖会に上村松園がいたのがその理由とも言われるが、現在のところその理由は不明である。妻として、母として生きる小坡でなければ気づかない日常生活のさりげない一場面を、ほのぼのと描出した作風から一変して、線描は細くシャープになり、物語に想を得た作品を発表するようになる。
 この「秋草と宮仕へせる女達」の中央に描かれているのが秋好中宮である。秋の風情を何よりも好んだ秋好中宮であることから、秋好中宮を囲むように秋草が、人物の顔の大きさと比べるとかなり大きく配されている。そして源氏物語に登場する7人の女性を描き、華麗で優雅な雰囲気に満ちている。絵巻や三十六歌仙等、史や古典研究の成果が生かされている。

秋好中宮図(あきこのむちゅうぐうず)

伊藤小坡作 1928年(昭和3)

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 「秋好中宮」は後世になってつけられた名称で、源氏が彼女に言い寄る口実に「あなたは春と秋のどちらがお好きか」と尋ねた際(「薄雲」)、「母御息所(みやすどころ)の亡くなった秋に惹かれる」と答えた事に由来している。美女であり、礼儀正しい女性であり、頭脳明晰。おまけに絵が巧いという、何とも理想的で高貴な女性として、紫式部は秋好中宮を源氏物語に登場させている。小坡にとってこの秋好中宮は、理想の女性として共感していたことが容易に想像できる。
 昭和3年(1928年)、竹内栖鳳 (たけうちせいほう) の竹杖会に入った伊藤小坡は、生活に取材した温かみと親しみに満ちた風俗画から、一転して平安朝の格調高い美人画の世界へ移行している。
 その翌年には、秋好中宮が紫の上へ贈る紅葉を集めている場面を描き、源氏物語絵巻を研究した成果を示している。全体に金箔を張り、その画面のほとんどに絵具と墨を配することによって、金箔のきらびやかさは抑えられ、深みのある作品に仕上がっている。 

「伊賀のつぼね」

伊藤小坡作 1930年(昭和5)

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 この女性は、篠塚伊賀守の娘で、後村上天皇の生母であった新待賢門院(廉子)に仕えた「伊賀の局」であると思われる。局は、正平3年に高師直が賀名生(あなふ)皇居を襲撃した際、女院を逃すために、吉野川の橋が落ちていたのを、松桜などの大枝を手で折って川にかけ、女院を救ったという武勇伝が伝わっている。
 正平2年、女院御所の西の山に亡霊が出るといううわさが立ち、6月の夜、気丈夫な局が事実を確認するために、亡霊が出るとうわさされていた庭に行き、歌を歌いながら納涼していた。すると松の梢に鬼の姿をした者が現れたので、「何者か!」と一喝したところ、「院のために命を失った藤原基任の霊である」と応えて姿を消したという。そのことを局は新待賢門院(廉子)に報告、吉水法印に命じて37日間法華経を供養した後には亡霊は出なくなった。
 その物語を題材にしたもので、画面には亡霊は描かれてはいないが、描かれた庭はどこか乱れた感があり、局の表情も姿も複雑である。異様な雰囲気が漂っているものの、松に使われた群青や草花の緑色などは爽やかであり、確かな運筆も含めて、京都の四条派を学んだ小坡の卓抜した技を如何なく発揮した代表作である。

「幻想」<新収蔵作品>

伊藤小坡作 1930年(昭和5)頃

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 高貴な女性が描かれている。今の寂しさのあまり華やかであった昔を懐かしんでいるのか、あるいは母の安否を心配しているのであろうか。女性の表情には憂いが感じられる。文(手紙)を書こうとしながら、まだ一文字も書いてはいない。
 画面上部には、群行(ぐんこう)の様子が描かれている。おそらく平安時代に京の都から伊勢国の斎宮御所への下向の様子であると思われる。天皇・皇太子・后妃そして斎王しか乗ることが許されなかった葱花輦(そうかれん)と思われる輿(こし)に乗せられてきたことを、この女性は思い出しているのであろう。
 机の側面には唐花菱、あるいは唐花とも呼ばれる四弁の花菱が配されている。これは伊勢神宮の神紋であり、この女性が神宮の関係者、すなわち斎王であることを物語っている。机上には猿面硯と和紙が描かれていることから、この女性は、三十六歌仙および女房三十六歌仙の1人であり斎宮女御(さいくうにょご)と呼ばれた徽子女王(きしじょおう、よしこ)であり、源氏物語において徽子女王がモデルと伝えられている「秋好中宮」に違いない。
 伊藤小坡は昭和3年、竹内栖鳳 の竹杖会に入り、帝展に「秋草と宮仕へせる女達」を出品している。これまでに妻であり母である日本画であることを貫徹させたような自分自身と家族を描いた親しみと優しさが溢れる風俗画を描き高い評価を受けていたにもかかわらず、画風を一変させて源氏物語絵巻の世界に心をかよわせる作品を描き始めている。竹杖会に入ったことにより何らかの要因があったのかも知れない。翌年には「秋好中宮図」を出品、源氏物語の世界を華麗に描いている。

「岩佐又兵衛《斎宮女御》模写」

伊藤小坡作

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 小坡は、膨大な量の模写作品を残している。岩佐又兵衛の「斎宮女御」を克明に模写した。最後には「参考とならず」と記載している。平安末頃から江戸時代末までの間、描かれ続けた「斎宮女御」を、徹底して研究している姿が想像できる。

「乳人浅岡」(めのと あさおか)

伊藤小坡作 1942年(昭和17)

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歌舞伎・浄瑠璃で知られる「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)から想を得た作品。仙台藩伊達家のお家騒動を題材とした作品で、「伽羅」は伊達綱宗が履いていたといわれる香木の伽羅(きゃら)の下駄(げた)で遊蕩(ゆうとう)生活をしていたというのが歌舞伎のストーリー。実際には、天皇と綱宗がいとこであったため、徳川家から見れば、綱宗は煙たい存在であったことは容易に想像できる。伊達家3代綱宗は将軍家から隠居を命ぜられ、その後を2歳であった幼君が継ぐことになるが、逆臣たちによって毒殺される危険が迫っていた。自分の子は命を落とすものの、乳人浅岡が必死に幼君を守ろうとするところが見どころとなっている。
一見すると画面は、風流にお茶を点てているところのように見える。しかし水指の中にはご飯が入っている。誰かにご飯の用意を頼むと毒を入れられる危険ができる。ご飯を準備する道具はないが茶道具はそろっている。お腹をすかせた幼君と自分の息子のために、茶道具で食事の用意をしているところである。目と鼻が彼女の強い意志と、絶対に危険から幼君を守るという決意を表している。爽やかに美しく描かれた作品であるが、浅岡の内面の強さを秘めた名品である。第5回新文展出品作。

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